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レイキと私(9)「ヘンなもの」

 父の他界後、夫と私はようやく結婚し、私は晴れてベルギーの正式滞在許可を得ました。🎊   その後は、いきなりアップテンポのとんとん拍子!   不法滞在中すでに上級まで通っていたオランダ語学校を最上級まで受け、看護助手の職業訓練校に半年通い、家の近くの総合病院にすぐに就職することができました!👍 とはいえ私が興味を持っているのは西洋医学ではなく東洋医学や代替え医療のほうなので、病院での仕事の傍ら色々と調べてみましたが、ベルギーは周辺国と違い非常に閉鎖的、現代西洋医学以外はほとんど認められていないことがわかってきました。   初めてレイキと言う名前をこちらで耳にしたときも、 「知り合いがヘンなものに引っかかって信じ込んでしまって。レイキっていう」  そういう話だったんですよねー。💦   レイキ=気功だと思っていたので、夫には「SHIATSUの一種」と言って時々施術していましたが、 オランダ語クラスで一緒だったアフガニスタン出身の女性と親しくなり、彼女にそんな話をしたところ大変興味を示し、「是非自分にやってみてほしい!」と。   そこで家に招待して、施術させてもらったんです。   夫とまるで違い凄く感度が鋭い人で、施術中も「あ、暖かい! 何か感じる! あ、すごい!」などなど反応が素晴らしい!    彼女はかなり骨盤が歪んでいたようで左右の脚の長さが明らかに違い、仰向けに寝てもらったところ足の開き方も極端に違っていました。が、施術が終わるころには足の開きがしっかり左右対称になっていて、私自身がビックリ!   骨盤矯正らしきことをしたわけではなく、F先生に教えて頂いた通り頭と身体のいくつかのポイントをゆっくりじっくり触れていただけなのに。   ご本人も、「大変気持ちよかった、スッキリした、体内のエネルギーが入れ替わったみたい!」と驚きの大満足、 「これは、是非多くの方々にやってほしい!!! あなたの仕事にすべきよ、私、大宣伝するから!!!」  この時、考えすぎずためらわず、彼女の言う通りに行動起こしていたら、今頃はカリスマヒーラーだったかもっ?!   が、ベルギーでは全く認知されていない、自分の夫にも話せない「ヘンなもの」、 いつか、きっと、そのうちに、・・・と思っているうちに、   とんでもない年月が流れていましたーーー!😆  

レイキと私(8)「父の旅立ち」

 「レイキと私」シリーズ、 思ったよりも横道にそれまくり、なかなか本題に入らないまま8回目を迎えてしまいました。タイトルも長すぎるので、「アラフィフ起業大成功!」カテゴリーから外し単独カテゴリーに変更しました。ご了承の程。m(__)m   さて、不法滞在期間中、 一度具合が良くなった父は心筋梗塞を起こし、その後膵臓ガンが発見され肝臓と肺に転移しており既に手遅れ!!😧  再び私は日本とベルギーを行き来することになりました。 気功治療のF先生と、ヒーラーとして活動し始めていた障碍者自立支援で仲間だったYさん、 このお二人が「押し掛け治療」と称してお礼も受け取らず、入れ代わり立ち代わり父の元に来てくださいました。 (私自身も、F先生から教えて頂いた気功治療を父に施術したと思うのですが、何故か記憶にありません。💦)   そのお蔭も充分あってのことでしょう。父はガンによる痛みが何と!一度もないまま、あと3か月と主治医に言われたところ9か月生き、その大半を病院ではなく自宅で、やりたいことをやり会いたい人に会って、旅立って行きました。   病院で父を看取った母。叔父・叔母、そして「押し掛け治療」で私の両親とも大変親しくなっていたYさんが駆けつけてくれました。亡くなった直後の父は、目を見張るほど満面ニコニコ笑顔だったということを、後で彼らから聞きました。   私は死に目には会えず、知らせを受けて2日後に帰国・到着。父の満面ニコニコ笑顔は、穏やかな仏像スマイルになっていました。   父の希望通りの宗教無し・お花を飾るだけのお葬式。父が俳優養成所講師をしていた時の生徒さんたちが、素晴らしい段取りで司会・進行をしてくださるという願ってもない成り行きに!   めっぽう真面目で不器用、ダンディーで三枚目、頑として自分を貫く強さの内に秘めた痛々しいほどの繊細さと愛情深さ。多くの方がそんな父の逝去を惜しみ、お別れに来てくださいました。   死亡後の諸手続きを終え、 一人っ子の私は母を残してベルギーに戻ることに、大~~きなためらいが。💦その一方で、ストレスが増える一方だった夫(当時は結婚直前でしたが)も心配。 夫はこの際仕事を変えようか、思い切って日本でベルギー風フライドポテト屋をやる? と言うことも考え始めていたり。   親戚やご近所と親しく交流し友達も多かった母は、地域活動やアルバイト、

レイキと私(7)「セルフメイド・セルフヒーリング」

ベルギー⇔日本を行ったり来たりの一年が過ぎ、 幸いなことに父も私もベルギーの彼も健康状態が少し落ち着き、今後の展望が見え始めたので、私はベルギーに腰を据えることにしました。   それは良いのですが、・・・ 国の歴史から始まって何でもかんでも複雑怪奇なベルギーは、移民手続きや結婚制度等についても例外ではなく、ただこれを話し始めると新シリーズ作って延々と~、になるので止めておきますが、   長い話を短くすると、他の事情も絡んで私たちは結婚するまで随分と月日がかかり、行政から待たされた期間とはいえ私は滞在許可のない事実上「不法滞在者」になってしまい、慣れない異国暮らしのストレスに拍車がかかりました。 話がちょっと変わり、日本でキューバ音楽をやっていた時のことですが、   友人にYさん(日本人)とL君(キューバ人)という国際結婚カップルがいました。彼らは東京に住んでおり、L君の日本語上達、日本に馴染む努力、ミュージシャンとして仕事をゲットしていく行動力は素晴らしく、周囲を驚嘆させていました!   その一方で、それを常に陰で支えたYさんの功績は周りからは目立つものではなかったのですが、いかに大変ですごいものか、私は友達だったので本人からも話を聞いて良く知っていたんです。 これは、もちろん夫と私にも当てはまることでして、海外生活に慣れるのは容易なことではありませんが、受け入れてサポートするほうも負けず劣らず大変なんですね。   そんな中、夫は鬱になりかけていましたから、今思えば本当に良く支えてくれたと感謝しかありません。💕  が、当時はYさんとL君の事も忘れ、ストレスから自分の大変さしか見えなくなって夫に八つ当たり😠💢したことも、一度や二度ではありませんでした。💦   その頃、  こちらでキューバ音楽活動が出来るかどうか、アントワープで仲間を探しましたが何と1人も見つからず、自分1人で弾き語りをするにもキューバ音楽好きが集まるような場所もなく、ショボーンと休止状態になっていきました。    (残念なことにそれは今も同じ状態なのです。が、決して諦めたわけではなく、弾き語りを老後の楽しみに残しています! キューバ音楽の大御所はみな高齢者、歳を取らないと味が出ない音楽、と言われているのです!😉)   (「日本人がキューバ音楽?!」と言う、こちらに人たちにしてみたらあまりのチ

レイキと私(6)「ベルギー移住計画」

またちょっと忙しくしていまして💦、更新が遅れちゃいました。m(__)m えーと、前回は、 自立支援運動についてと、ベルギー移住計画に至る過程、でしたね!   で、今回は、移住計画のっけからヤバヤバーーー!!!😵、のお話しです。   交際相手と結婚するかしないか? するならどのタイミングで?  テキトーに決めちゃう人はあまりいないでしょう。充分な交際期間をもってから決めるカップルが多数派ではないでしょうか。   が、国際遠距離カップルとなると、「充分な交際期間」が既に無理難題! で、結局私たちの場合は、お互いに何度かベルギーと日本を訪れあい、その後私がベルギーに3か月行って、彼の家で生活してみることにしました。   で、その直前。 折しも仕事上の変化でストレスを積もらせ、今思えば既に鬱の兆候が出始めていた彼は、身体の健康にも異常をきたし、仕事を続けられるのか?という、いきなりな局面に!😨   そしてその3か月の間、今度は日本にいた父が原因不明の体調不良で、ほとんど寝たきりの状態に!😱   更に私自身が股関節に激痛を起こし、検査の結果先天異常が発覚。良くなることはないということで、太極拳指導は諦めるしかなさそう。平均体重日本人より10キロ重いベルギー人相手の介護系仕事にも、大いに疑問が!😧   おいっ!! 幸先悪いにもホドがあるぞっ!!!😬   で、先に進めず後にも引けなくなった私は、3か月ベルギー3か月日本を繰り返し、様子を見て行くことにしました。(結果的に1年間そういう状態でした)   日本にいる間は、具合が悪くなった父と当時まだ仕事をしていた母のサポートをしながら、障碍者自立支援の介助の仕事をさせてもらうことができ、 時間があるので以前から書きたいなと思っていた題材で、ついに小説を書くこともでき、 ベルギーでは現地の暮らしに慣れながら、オランダ語の集中講座に通ったり、 結構有意義に過ごしました。😯   そうして一年が経ち、父はまた元気を回復し、ベルギー人の彼も小康状態となり、私の股関節も運動療法などで痛みが減っていきました。😊 そしてその頃、初めてベルギーで、「レイキ」という言葉を耳にしました。   「レイキ? なにそれ?」 「え?? 日本人なのに知らないの?」   どういうものなのか説明を受けたところ、日本でF先生に教えて頂いた気功治療と同じじゃ

レイキと私(5)「障碍者自立支援」

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ベルギーに引っ越す前、日本で暮らしていた最後の5年くらいは、そういう訳でキューバ音楽と障碍者自立支援にどっぷり関わり、その二つで生計を立てていました。   この障碍者自立支援はどういうものだったか、と言いますと、   障碍者、特に重度の方々は、親が介護できなくなってからは施設に行くという選択肢しかない、これを変えよう! というものでした。住み慣れた地域で自立生活をしたり、仕事したり結婚して家庭を持ったり、在宅介助の制度さえ整えば、それが可能になるわけです。   この自立支援運動の先駆者たちであるツワモノ重度障碍者の方々は、自ら外に出てビラを配り、自力でボランティアを探して自立生活を試みてきました。 が、それは相当なパワーと他人を惹きつける力を持った一握りの人にしかできないことです。また、ボランティアでとなると介助者も長時間・長期間は難しい。怪我をしても何の保証もないとあっては、続けられず去っていく人も後を絶たず。 そこで彼らは自治体に対して運動を起こし、少しずつ成果を出していきました。 自立障碍者はもちろん、重度障碍児の親御さんの負担を軽くするためにも、在宅介助が仕事として認められるようになっていったのです。   そのような訳で初めの数年はボランティアで関わっていた私も、資格はなくとも経験が物を言い、自治体の「推薦登録ヘルパー」として有償で介助ができるようになったのでした。   が、1998~9年頃のこと。 当時、介護保険導入に伴い「推薦登録ヘルパー制度」は廃止されることになり、介助を続けたいならヘルパー2級資格を取る必要が出てきました。 また、折しもバブル崩壊で、キューバ音楽バンドの仕事も減っていきました。 日本にいても、仕事の事を考え直さないといけない。 両親も当時はまだ元気でした。 ベルギーに行ってやり直しても良いかもしれない!と思ったわけです。   介護系の仕事はベルギーでもできるだろう。キューバ音楽をやる仲間も見つかるだろう。 指導員資格があるから太極拳を教えられるかも。お餞別に先生から教えて頂いた気功治療もやれるかも。   と楽天的にベルギーに行っちゃったんですが、 キビシ~イ現実が待っていました!!!   いやはや、なかなかレイキの話に繋がりませんが、💦     つづく~~      <a href="https://pixabay.

レイキと私(4)「キューバ音楽と気功治療」

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ハート泥棒💕達と関わるようになった時期は、後から振り返ると私の人生・大変化のときでした。   ちょうどその頃、太極拳☯も始めました。(これについては追って「太極拳と私」シリーズで!)   そして、何をやってもモノにならなかった表現の世界で、とうとう「これだ!」に出会いました!   それは、キューバ音楽!!💃🎶🌴   キューバ音楽は、大ざっぱに言いますと、スペインの旋律とアフリカのリズムの混合です。  スペインの旋律は、西洋音楽に、インドから来たジプシーがもたらした東洋色、アラブ支配を受けたときの影響によるアラブ色、が加わっているようで、 つまり、広範囲に及ぶ世界の要素が凝縮されていて、そのべースとなるリズムは、我らが故郷アフリカ! 人類はアフリカ発祥ですものね!   スペイン統治、原住民絶滅、アフリカ奴隷、といった暗く辛い歴史を背景に、どうやってこれほど明るく楽しい音楽が誕生できたのか!  軽やかでオープンで、同時に深い味わい、私はすっかり魅了されました!😍 それまで東洋西洋まぜこぜに色々試みてきた歌唱法や踊り、それもキューバ音楽にすべて活かすことが出来そう!!   当時(今も?)日本でキューバ音楽を演奏するミュージシャンは決して多くはなく、プロとアマチュアが一緒にやっているバンドが多かったようです。 東京ではライブハウスやイベント会場などに愛好者が集まり、その世界ではかなり盛り上がっていました。   そこへ私も参入することが出来、日本初のチャランゴン(バイオリン、フルート、トロンボーンが加わったキューバ風大編成バンド)のリードボーカルに抜擢されるという大幸運を得ました! これは本当に楽しいバンドで、当時の私は水を得た魚のようでした。🐟💦   その後私は、もっと動きの取りやすい少人数のバンドを作り、 ライブハウスは勿論、企業のイベント、学校・幼稚園の音楽鑑賞会、などなど活動の場を広げ、趣味よりも仕事になっていきました。 その間、二度キューバに行きまして、一度目は1993年で、踊りと歌を習いに。二度目は1997年で、自分のバンドがキューバの音楽祭にご招待を受けたので。   キューバは「音楽大国」と言われていますが、その世界は180度、否、360度オープンで、プロ、アマ、有名、無名、全く関係ないんですね! 面白いと思えば舞台にあげちゃう、一緒にやっちゃう、

レイキと私(3)「ハート泥棒達と気功との出会い」

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アラフィフ起業大成功!(4)「レイキと私②」のつづきです。   若いころの私は、人を癒すよりも楽しませる方に興味があり、 東洋医学の道には進まず、バイトしながら演劇やったりバンドやったり。   劇団、ロックバンド、声楽、民謡、ジャズダンス、日舞、興味の向くまま色々試しました。が、どれも器用貧乏で終わってしまい「これだ!」というものに出会えず、20代後半は焦燥感と自己喪失感に囚われ初めていました。😓   「ああ、私は何をやってもモノにならない。そもそも私は、何を求めているんだろう??」。   その頃のことです。 街中でフト、車いすを自力で漕ぎながら坂道を登っていく青年の後ろ姿を見かけ、あまりのカッコよさに目を奪われました。 続いて、図書館で見かけた脳性麻痺と思われる女性が、絞り出す小声と震える指で付き添いの人に指示を出しながら本を選んでおり、何故かその光景にもスッカリ心を奪われました。   出会うべくして出会った、ハート泥棒たち💕!!  是非彼らのような方々とお近づきになりたい! と、近くにあったボランティアセンターに行ってみたのが、その後、障碍者自らが主宰する自立支援運動に、介助者として長くかかわることになったきっかけでした。   そこで学んだことは計り知れませんが、これについてはまたいずれ別の機会にお話ししますね。   で、障碍を持つ方々の自立生活を支える在宅介助を8年ほどやりまして   その間介助者として最も長く深くかかわらせて頂いたのは、施設を飛び出し長年一人暮らしを続けておられた、重度身体障碍をお持ちのツワモノ女性、Mさん。   その方のところに、定期的に治療にいらっしゃる気功の先生がおられまして、 その方、F先生は東京に治療院をお持ちで、障碍者自立支援にも関わっておられ、出張治療もなさっていました。   大変ざっくばらんでエネルギッシュなF先生は、「介助者はみんな腰わるいからねー。はい、治療するからそこに寝てー!」と、Mさんだけでなく我々介助者も、フツーに当然のように無料で治療してくださいました! F先生の治療は、基本的に患者である我々の頭、首、足など数か所を、手や指で軽く触れているだけでした。そして治療後は、ガチガチだった肩、背中、腰がすっかりほぐれている! 「うーむ、これが気功治療と言うものかー」と、また東洋医学への興味が、ムクムクと頭をもたげてき